【連載企画】人生で大切なことは、スポーツが教えてくれた 〜折れない心の作り方〜
vol.10 山本 聖子
★折れない心の格言★
「一度辞めて、気持ちがリラックスできて満タンにできた」
姉はミュンヘン五輪にちなんで“美憂(みゆう)”、妹は聖火から“聖子”(せいこ)と名付けられた。“五輪”に由来を持つ姉妹は、強さと美しさで女子レスリング界を背負った。やっと五輪の正式種目になったとき、無情にも夢の舞台には立てなかった…。妻・母となったいま、ロンドン五輪に向けて再始動。愛情という“味方”と、時間という“薬”を手に入れて、新たなチャレンジに挑んでいる
■実績を積み重ねた…だが夢はあと一歩で手元からこぼれ落ちた
―51、56、59キロ級の3階級で4度も世界選手権優勝。女子レスリング界をけん引し、ようやくアテネ五輪から正式種目になった年、残念ながら代表選考試合で準優勝。五輪出場は叶いませんでした…。
山本:当時の自分が感じたのは、突然目の前から自分のすべてを取り上げられた。目の前から…。こう言ってはおかしいですけど、本当に突然職を失った人というか…「あしたから何をしていこう…」みたいな、そんな気持ちになりましたね。
―聖子さんは当時23歳。この競技の“パイオニア”として君臨したお姉さん・美憂さん(48キロ級)も代表選考試合で3位。五輪代表に選ばれませんでした。
山本:もちろん自分も行きたいし、「父を連れて行きたい」という気持ちがすごく強かった。姉と二人でそれができなくて、もう本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。悔しいのと、父に対しては本当にあんなに一生懸命に教えてくれていたのに「すみません」と…。
―レスリングのミュンヘン五輪代表として活躍した父・郁榮さんは、娘たちに何とおっしゃったのですか?
山本:父は「よくやった、よくやった。頑張った、頑張った。もういい、もういい」と……。一回も「何であのとき…」とかプレーへの不満を言われたことはないですね。試合が終わったらもうそこで終わり、と。
―五輪代表の座を争った吉田沙保里は、アテネ五輪で金メダル獲得。彼女は“厚い壁”でしたか?
山本:小さい頃から一緒に戦ってきて、勝ったり負けたりを前年から繰り返して、本命の年で負けてしまった。「絶対に勝つ」という強い気持ちでした。気持ちの面でも体力の面でもとても充実していた。ただあのとき一番強かったのは彼女。私はやることはやりきった。だから何の後悔もなかったですね。
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山本家の3人の子供たちは全員、尊敬する父と同じレスリングで『五輪』を夢見た。姉はアテネ五輪、兄・徳郁はシドニー、北京五輪を目指した。同じ夢を追う肉親の存在は、聖子さんに強烈な刺激と使命を感じさせたに違いない。
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【山本 聖子】
レスリング選手。1980年8月22日、神奈川県川崎市出身。トキワ松学園高校、日本大学通信教育部商学部を経てジャパンビバレッジへ入社。
父・郁榮は男子レスリングのミュンヘン五輪代表、日本体育大学教授。姉・美憂(元世界王者)、兄・徳郁(総合格闘家)の影響でレスリングを始める。
1994年、13歳で全日本選手権44キロ級3位。99年全日本選手権準優勝、ジャパンクイーンズカップ優勝、世界選手権51キロ級優勝。2000、01年は同56キロ級連覇。03年には同59キロ級優勝と3階級で4度の世界王者に輝く。同年、クリッパン国際大会優勝、ポーランド・オープン優勝。主に59キロ級で活躍。04年アテネ五輪で女子レスリングが正式種目入り。五輪第2次選考会を兼ねたジャパンクイーンズカップ55キロ級決勝で、吉田沙保里に惜しくも敗れた。ヒザのケガに悩まされたが05年、全日本選手権59キロ級優勝。06年アジア選手権優勝。同年3月、ハンドボール日本代表の永島英明と婚約。7月引退、10月結婚。07年第一子を出産。09年1月、現役復帰。59キロ級でポーランド・オープン優勝、63キロ級へ転向後の全日本オープン選手権優勝、全日本選手権3位、2010年、ヤリギン国際大会準優勝、明治乳業杯全日本選抜選手権準優勝、アジア選手権3位。2012年ロンドン五輪では63キロ級で出場を狙う。1メートル63、63キロ。
人生で大切なことは、スポーツが教えてくれた 〜折れない心の作り方〜